祖父の死を経て
数週間前祖父が亡くなりました。
今の思いを残しておきたいと思いブログに書こうと思いました。
年末実家に帰省した時祖父が入院していることを聞かされました。
その時は病気とかではなく、ちょっとした事故により骨折してしまい入院しているとのことでした。正月になると外泊が許可され祖父が帰ってきました。
年も取ったせいか動きも遅く、耳も大分悪くなっていました。
少し認知も入っているような状況でした。
しかし食欲も旺盛であり、今後の介護が少し大変になるだろうなというような感じでした。実家には両親、姉がおり姉は看護師をしていることもあり、その辺は全く心配もなく、両親も心強かったと思います。
そんな中私は年末年始の休暇を終え、実家から旅立ちました。
その時は祖父がすぐにどうこうなるなんて思ってなくて、次に帰省した時もいつものように会えると思っていました。
3月になり母から突然メールが届きました。
「じいちゃんがそろそろあぶないかもしれない、礼服を準備しておいて」と
メールを見た時はなぜという感じでした。じいちゃんが入院していたのは骨折によるもので、死ぬなんてありえないと。
母から詳しい話を聞くと、2月には怪我も治り退院をしたが2,3日実家で過ごしていたら肺炎を起こし再入院したと。
食欲もなくなりかなり痩せている状況であることを知らされました。
点滴をすれば栄養も届き延命できる状態ではあるがそれもいつまで続くかわからず、体調が悪い原因を検査するにも祖父の体に負担をかけてしまうことから、このまま治療等をせずに過ごすことを祖母、両親と話し合い決めたそうです。
母から1度目のメールが届いてから2日後にまたメールが届きました。
「来週いっぱいが山かもしれないから、土日実家に帰ってきて最期に顔を見てあげて」
という内容のメールでした。
休暇が余っていたので月、火と休みをもらい、少しでも長い間祖父と過ごすことを決めました。
実家に帰り病院に駆けつけると、痩せて細くなったじいちゃんがいました。
息遣いも荒く苦しそうでした。ずっと寝ているのがつらいのか、しきりに体を起こしてくれと、手で指示してきました。しかし体を起こすとそれがまたつらいみたいですぐ横になりました。
病室で自然と涙が流れました。まだ死ぬわけではないのに涙が止まりませんでした。
その日は家族と交代で夜中も付き添いしていました。
次の日も同じように日中付き添いをしていました。
じいちゃんの娘(私の叔母)も帰省していたが、子供の関係でまた帰らないといけないため出発しようとしていた時、じいちゃんの容態が悪くなったと病院から電話がありました。叔母は仕方がないので帰りました。
すぐに病院に駆けつけるとまだ大丈夫だと伝えられ安心しました。しかし来週いっぱいもつかどうかという状態だが伝えられました。
その夜、母(じいちゃんの娘)がこれ以上苦しむ祖父を見たくないから、薬を投与して楽にしてあげてほしいという話がありました。しかし薬を投与すると一時期は楽になるが、呼吸が弱くなり死んでしまう可能性もあると。それでも良いという話になり、翌日薬を投与することになりました。翌日になれば一旦叔母も帰省できるから、祖父の最期を看取ることができると。
その夜私は病院には行かず実家で寝ることになり、寝床についたところで病院から連絡がありました。大分呼吸が弱くなっており、今夜が山場だと。
すぐに病院に行ったがじいちゃいんは目をつぶっており、喉が微かに動く程度で息をしていました。
数分後喉の動きがとまり、主治医が来て死亡を確認しました。
涙が止まりませんでした。
その後は通夜の準備、葬儀の準備で慌ただしく悲しむ暇もありませんでした。
しかし葬儀での母の涙、祖母の涙、姉の涙、みんなの涙をみて改めて祖父の死を実感しました。
葬儀を終え次の日の朝。
祖父の写真、骨壺のある部屋で寝ていた私は7時ころ目が覚めました。
すると祖母が祖父の写真の前で座っていました。
時間にして10分くらいなにもすることなく座っていました。
それを布団で寝ながら見ていました。
また涙が止まりませんでした。
祖父は酒が大好きでした。一度で良いから一緒に日本酒を飲みたかった。
もっと一緒にいたかった。旅行に連れて行ってあげたかった。
色々な思いがこみ上げてきました。
人の死がこんなにも辛いものだとは思いませんでした。
大切な人には後悔しないように、言葉を伝え、行動で示してあげることが大切だと思いました。くだらないことで悩んでる時間があれば今を楽しみ、一生懸命生きていきたいと改めて思いました。
お盆帰省するときには祖父の大好きな日本酒を買って供えたいと思います。